大判例

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最高裁判所第二小法廷 昭和57年(オ)370号 判決

上告人

中村博幸

右訴訟代理人

倉田哲治

森谷和馬

石田省三郎

被上告人

右代表者法務大臣

嶋崎均

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人倉田哲治、同森谷和馬、同石田省三郎の上告理由について

所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができる。

ところで、検察官は、事件について証拠調が終つた後、論告すなわち事実及び法律の適用についての意見の陳述をしなければならないのであるが、論告をすることは、裁判所の適正な認定判断及び刑の量定に資することを目的として検察官に与えられた訴訟上の権利であり、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正かつ迅速に適用実現すべき刑事訴訟手続において、論告が右の目的を達成するためには、検察官に対し、必要な範囲において、自由に陳述する機会が保障されなければならないものというべきである。もとより、この訴訟上の権利は、誠実に行使されなければならないが、論告において第三者の名誉又は信用を害するような陳述に及ぶことがあつたとしても、その陳述が、もつぱら誹謗を目的としたり、事件と全く関係がなかつたり、あるいは明らかに自己の主観や単なる見込みに基づくものにすぎないなどの論告の目的、範囲を著しく逸脱するとき、又は陳述の方法が甚しく不当であるときなど、当該陳述が訴訟上の権利の濫用にあたる特段の事情のない限り、右陳述は、正当な職務行為として違法性を阻却され、公権力の違法な行使ということはできないものと解するのが相当である。

これを本件についてみると、原審の適法に確定した事実関係によれば、本件論告において、検察官は、上告人の兄中村隆治が上告人の逮捕をおそれ、上告人をかばうため虚偽の自白をした旨弁解しており、隆治の具体的詳細な供述内容や、同人が否認に転ずるにあたり上告人のアリバイが成立するかどうかを特に気にしていることなどからみて、隆治が虚偽の自白をしたのは、やはり本当に上告人の犯行を隠ぺいし、上告人をかばう必要があつたからであるとの趣旨の陳述をしたが、右陳述は、隆治が爆発物の搬送者の一人である点についてはアリバイを覆すことができないものの、同人の供述のうち右の点を除く部分が裁判所によつて受けいれられることが、事案の真相を明らかにするために必要不可欠であるとの立場から、同人の右供述部分について信用性がある旨を述べる目的のもとに、同人の供述の信用性を検討する過程で、同人の弁解に基づき虚偽供述の動機について一つの見解を述べたものであり、その意見表明の方法も上告人の行為そのものを直接的に表現し、又は具体的事実を特定して明確にしたものではなく、抽象的な表現を用いて、隆治の供述の信用性に言及するうえで、派生的かつ付随的に述べられたものであつて、当該被告事件における論告の目的と密接な関連を有し、又はその合理的な範囲に包含され、しかも表現方法に穏当を欠くところもなく、訴訟上の権利の濫用にあたる特段の事情があるとはいえないから、右論告部分の陳述は、検察官の正当な訴訟上の権利の行使として違法性が阻却され、公権力の違法な行使にはあたらないものというべきである。以上と同旨の原審の判断は、正当として是認することができる。

原判決に所論の違法はなく、右違法のあることを前提とする所論違憲の主張は、前提を欠くものといわなければならない。論旨は、独自の見解に立つて原判決を論難するか、又は原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、いずれも採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(牧圭次 木下忠良 鹽野宜慶 大橋進 島谷六郎)

上告代理人倉田哲治、同森谷和馬、同石田省三郎の上告理由

原判決には、憲法の解釈の誤りがあり、かつ、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違背がある。

一、論告とは

原判決は、論告について、これは公益の代表者である検察官の、刑罰権の実現のための最終意見陳述であるから

当該公判手続で適法に取調べを受けた証拠につき、その証明力、信憑性にまで言及して検討批判を述べ、当該起訴事実との関連において、証拠の評価、位置付け及び証拠に基づく推論を開陳するなど、当該公判手続における訴訟活動を総括して締め括る

ものであり、検察官の重要な職責として

その関係証拠に基づく推論の結果、第三者の名誉、信用を害するに至つたとしても

適法な訴訟活動になると言い、更に

その方法が取調べた証拠に基づき、かつ、その態様、範囲が、その解明論証のため、明白に全く不必要若しくは無関係な事項にわたつているものとは見られず(一〇丁表・同裏)

本件論告は、刑訴規則一条二項にいう訴訟上の権利を、誠実に行使したものであり、濫用したものとはいえない、というのである。

検察官の論告は、右原判決の言うとおりであるかもしれない。

しかしながら、右原判決の説示は「適法に取調べを受けた証拠」についていうものであり、「証拠に基づく推論の開陳」でなければならない。このわずかな件りの中でも原判決は四度、取調べずみの証拠と言い、証拠の存在を強調している。

言葉を替えて言うと、原判決のいう論告は――適式な証拠があつてはじめて可能になる。証拠のない推論は、その前提を欠くので、成り立たない。こうした論告は、訴訟上の権利を誠実に行使したといえないから、権利の濫用にわたることもある――ということになる。

原々判決の論告について判示するところを見ると

論告は公益の代表者として裁判所に法の正当な適用を請求する職責を担う検察官が事件について最終的な意見を陳述するものであるところから、その内容は証拠調の結果に基づいた公正妥当なものでなければならず、従つて検察官が論告を行なうに際しては、それによつて第三者の名誉を毀損することのないように十分に配慮しなければならない(一四丁表)

となつている。

一方は刑罰の実現のためと述べ、これは裁判所に法の正当な適用を請求するためと言い、ニュアンスの違いがあるが、「証拠に基づく」とする点においては同一である。

そこで、本件論告の上告人に対する弾劾は証拠に基づく推論であつたか否かが、問われることになる。

答えは否である。

原々判決も言うように

本件論告一及び二の各部分は、的確な証拠による裏付けもないままに大胆な推論を展開したものと評さざるを得ないというべきで(一五丁裏)

あつたのである。

このことは、原々判決の説示ばかりではなく、爆弾搬送の第三走者とされていた坂本勝治の第一審無罪判決も、論告の該当部分について

(中村隆治)の自白の動機について実際には中村の弟が中村に代るべき地位にあつたとする検察官の指摘は、一つの可能性としては考慮しえないわけではないが、この点は当公判審理において、検察官自身何ら積極的に主張、立証していないところである(同三九丁裏)

と述べている。

そうすると、本件論告を適法だとした原判決は、存在しない証拠をあたかもあつたかの如くに錯覚したことになり、この点において採証法則の違法を免れないことになる。

二、刑事訴訟規則第一条二項

原判決は、本件論告が適法な訴訟活動(正当な職務行為)として違法性を阻却し、民・刑の責任を問われないことを言うために

訴訟上の権利である最終意見陳述権を誠実に行使し、濫用しているのでない(一〇丁裏)

として刑事訴訟規則第一条二項を引き合いにしている。

右条項は「訴訟上の権利は、誠実にこれを行使し、濫用してはならない」とある。

これは、「一見、訴追官である検察官と被告人・弁護人を書き分けていないので、双方に平等に適用しなければならないかのようにみえる。

原判決は、まさに、この文言をそのまま、検察官と被告人・弁護人に平等に適用されるものとして引用したのであろう。

しかしながら、当事者主義による現行刑訴法の運用の実際において、対等・平等主義を額面通り強行すると、いかに不合理な結果をもたらすものであるかは、既に多くの識者によつて指摘されてきている。

強大な捜査権力を背景にした検察官と非力な被告人を、対立当事者として形式的にとらえることは、不平等であり、不自然であり、裁判の公正を害するものであることは、いま更述べるまでもない。

真の平等とは、力の強いものにハンディキャップを負わせることによつて、力関係のバランスをとることである。そうすることによつて、事案の真相も解明されるということになる。

憲法に言う法の下の平等は、まさにこうした配慮を前提として、はじめて実効性のあるものとしてとらえることができるのであり、具体的正義の実現という裁判の理念もまたここにあると言うべきである。

そうだとすると、検察官の論告は、適式な証拠調べに基づき、慎重にして、かつ、謙虚なものでなければならない筈であるのに、「的確な証拠による裏付けもないままに大胆な推論を展開した」本件論告は、明らかに正当な職務行為を逸脱した論告権の濫用ということになる。

この点において、原判決の本件論告の判示は、憲法解釈を誤つたとの非難を甘受しなければならない。

三、第二走者はだれか

原判決は、爆弾リレー搬送の第二走者が誰であるかについて

本件論告の右部分は、被控訴人の右関与の具体的事実を特定して明確にしたり、その関与の度合が、犯罪行為に該当する程度であつたかどうかにまで言及したものではなかつたことが認められる(九丁裏)

と言う。爆弾リレー搬走の第二走者が上告人でないことは、刑事法廷でも、本件一、二審においても確定した事実と言える。

しかるに、本件論告は、名指しで第二走者が上告人であると言おうとしているのである。

原々判決は、本件論告のこの件りについて「検察官は、本件搬送の第二走者が誰であるかについて何らの確証もつかんでいなかつたし、また本件被告事件においてこの点の立証をしたこともなかつた」のに

(論告の)右表現はその一部に仮定的体裁を伴つてはいるけれども、それを肯定した上で立論が展開されていることは、前後の文派からして容易に推察される(一一丁裏・一二丁表)

とし、更に

「原告(上告人)は、爆弾及びその発送担当者を榎下から引きついで、坂本に渡したところの本件搬送の第二走者である」ことを暗に表現し、右論告を聴く一般人をしてそのように認識させる内容を含んでいるものといわなければならない(一三丁裏)と言う。

こうした原判決と原々判決の事実認定の大きな隔たりは、単に証拠検討の粗密さばかりに原因するのではなく、論告を刑罰権の実現のためのものとしてとらえるか、法の正当な適用を裁判所に請求するものと解するかの相違に由来する。

原判決の観点に立てば、論告が「第三者の名誉、信用を害するに至つたとしても」違法性を阻却することになるし、原々判決の解釈によると、論告は「それによつて第三者の名誉を毀損することのないように十分配慮しなければならない」ものということになる。

これはつまるところ、憲法をどのように理解しているかによつて分かれるのであろう。

原判決は、個人の基本的人権の保障という側面を全く見過ごしていて、検察支持に片寄りすぎているとの謗りを免れない。裁判は正義の実現であり、公正が担保されなければならない。

かかる意味合いから、原判決には採証法則の違法があるというばかりではなく、引いては憲法解釈を誤つたものともいうべく、破棄されるべきである。

因に、土田・日石事件と言われる刑事被告事件は、起訴以来既に二五六回廷を数え、一審だけで一〇年になろうとしている。

このことは、右事件が、クロシロのけじめがつけ難いというのではなく、検察官が無実の被告人に濡れ衣を着せようとするから徒らに裁判が長びいているのである。

東京地方裁判所刑事第九部が、昭和五六年一一月一八日になした証拠決定(判時二〇二七号)は、右事件がフレームアップであることの一端を示している。

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